バックレがやめられない

バックレがやめられなかった20代の10年間、バックレ癖で人生がとんでもないことになった経歴を綴ります。

5-2.認知行動療法で“自己否定癖”を自覚する。しかし……

初回カウンセリングでバックレの根源が“自己否定”であったことが判明。

これからのカウンセリングで自己否定をしていることを自覚するとともに、その思考の癖を修正していくことになったのだが……。

 

 

毎回のカウンセリングでやることは、基本的に前回と変わらない。バックレてしまったときのことをアセスメントシートに書き出し、内容について「なんで?」と問いを重ねて、行動や感情の原因を深堀りする作業をとにかく繰り返す。繰り返すことで自分の思考癖を自覚するとともに、「こういうとき、今まではこう捉えていたけど、今度はこういう風に考えてみる」と新しい思考癖を身に付けることを目指す。

自分の行動を否定するのではなく、次の行動の筋道を立てること、“ダメ出し”ではなく“反省”ができるようになることが、カウンセリングの目的である。

途中からは、この作業をカウンセリング中だけでなく、宿題として自宅でも行うよう指示が出された。最終的に自分一人でできるようにならねばならないからだ。

アセスメントシートを用いてバックレに至った原因や行動の流れを自分自身で整理し、どう思考すれば回避できたか、自分で考える。それを次回のカウンセリングに持っていき、先生からフィードバックをもらって、さらに自己理解を深めるというのが毎回の流れであった。

 

こうして、過去に起こした様々なバックレ事例の分析を重ねることで、自己否定癖を自覚するだけにとどまらず、細かな思考の癖も明らかになっていった。

 

 

ある過去のバックレについてアセスメントシートで書き出しを行ったときのこと、私はその結果を見て「ああ、私はこのときも人の期待に応えようとしていたのだな」ということに気が付いた。そこで私は、「人の期待に応える必要はない。次からは、他人の評価を目標にしないようにする」という結論を出して、カウンセリングに持って行った。

自分では、次につながる明確な答えを出せたつもりだった。しかし、先生からは「それでは結局自己否定していますよ。その結論は“ダメ出し”であって、“反省”になっていません」と指摘を受けたのだ。

 

最初は何が悪いのかわからなかった。他人からの評価を目標にすえてしまったことが悪かったのだから、そうしないように気を付ければいいのではないのか。

しかし、何度も分析するうちにわかってきた。この考え方だと、「人の期待に応えたい」という私の感情を「そんな風に考えてはいけない」と否定している。つまり、先生の言う“感情を理性で押さえつけている”状態になっているのだ。これは期待に応えたいと考える自分への“ダメ出し”であり、“反省”になっていないというのが先生の指摘なのである。

 

それでは、“反省”とは一体どういう思考なのか。

考えるべきは「ここがダメだったから、次からはこうしてはいけない」ではなく、「なぜこうなってしまったのか?」という部分である。この分析でいえば「どうして私は期待に応えたいと思ってしまったのか?」だ。

どうしてそういう感情が沸き上がってきたのか。感情の背景に何か隠れていないか。そして、その感情を満足させるために私はどうすればよかったのか。

そうやって自分自身に問いかけ、共感し、自分を満足させられる方法を考える。それが、前回のカウンセリングで教えられた「感情と理性の公平な裁判」なのである。

 

 

とはいうものの、私はこの「公平な裁判」というものをなかなかうまく進めることができなかった。どうしても感情を否定していることへの知覚が遅れて、「次からはそう考えない」といったような、感情を抑えつける答えを出してしまう。

なぜうまくいかないのか。分析を重ねるうちに、その背景には“白黒思考”が隠れていることもわかってきた。

 

 

ある回で、報酬は低いが継続的な依頼を期待できたため受注したものの、結局やる気が無くなりバックレてしまった仕事を分析の題材にした。宿題の自己分析では、「継続受注ほしさに相手に認めてもらおうして、完璧にやらなくちゃいけないと思ったことが原因」と答えを出して持って行った。

この答えに対して、やはり先生からは根本的なツッコミが入る。

先生は「どうして完璧にやろうと思ったの?」と言うのだ。「僕だったら、その条件で完璧な仕事しようなんて思わないよ」と。

 

先生は、例えばその仕事では希望している報酬の50%くらいしか得られないのであれば、50%の頑張りしかしないという。継続依頼がほしいという事情があったとしても、ちょっと頑張りを足して60%とか70%の力しか出さない。得られるものが50しかないのに、100の力で頑張る必要はないでしょう、と。

私には全くなかった考え方だな、と思った。この件に限らず、私はどんな仕事でもどんな条件でも、常に100の力で頑張ろうとしてきた。また、これについてはその自覚もはっきりとあった。

 

私は、バックレの原因を「相手から評価されることを目標にすえて、完璧にやろうとしてしまったこと」と分析した。しかし、根本的な原因はそれよりも前。目標以前に「報酬が低いことに対する不満」が存在していて、その不満を宙に浮かせたまま目を向けなかったのだ。さらには、その感情に「継続案件につなげたいなら我慢して頑張らなくちゃいけない」と理性を押し付け、我慢させることを選んだ。不満を感じている自分に100%の頑張りを強要した。感情を抑えつけたことがストレスとなって、それがバックレの原因となってしまった。

0か100かの対応しかできない、完璧主義者にありがちな、白黒思考の典型である。

私には思いつきもしなかったが、先生の言うように、不満に思う気持ちを素直に認めてもよかったのだ。報酬が50ならその分の頑張りしかしない、だけど今回は継続案件がほしいから、少しだけ頑張りを足して、60の力でやることにしよう。そういう折衷案を考えられるようになることが、「感情と理性の公平な裁判」なのである。

 

 

カウンセリングに通い始めた当初、私は「バックレたいと思わなくなること」がカウンセリングのゴールなのだと思っていた。

仕事をやりたくない、逃げてしまいたいという感情をなくし、難しい仕事にも果敢にチャレンジしてやり遂げる。そんな理想通りの自分を手に入れること。カウンセリングに通えば、いつかそれが叶うのだと思っていた。

しかし、「感情と理性の公平な裁判」の第一歩は、「バックレたいと思う感情を否定せず、認めて受け入れること」である。白黒思考の私は、“人の期待を気にしない自分”“全くバックレたくならない自分”を目指すのだと思っていたが、それも自己否定のひとつなのだ。

 

そもそも「期待に応えたい」「やりたくない、バックレたい」というのは、自分の内から湧き出る自然な感情である。勝手に湧いて出てくる感情を打ち消したり無かったことにしたりなんて、できるわけがない。勝手に湧いてくるのが感情なのだから。

バックレたくなっても、別にいいのだ。期待に応えたい、でも怖い、逃げてしまいたいと思ってしまう自分でいいのだ。

しかし、その感情に素直に従ってしまっては、生活に支障が出る場合がある。そのときは、感情の原因を把握して、自分自身を適度に納得させつつ、現実との折り合いをつけてあげる方法を考えればいい。

 

この先どんなにカウンセリングに通っても、バックレたい自分はいなくならない。そういう自分はそのままに、ただ現実との折り合いが付けられるようになるだけ。

私はこの先も、一生、バックレたい自分と付き合って生きていく。

そのために、カウンセリングに通うのだ。

 

 

頭ではそうわかっていても、実際にそれができるかどうかは全く別の話であった。

現に、カウンセリングに通っている最中も、新しい仕事に手をつけてはそのすべてをバックレた。クラウドソーシングで受注したLP制作の仕事3件を全てバックレ、貴重なチャンスであったコラム執筆の仕事からバックレ、生活のためにやむなしと始めたチャットレディの仕事からもバックレた。

バックレる原因はもうわかっている。自己否定癖も完璧主義も白黒思考も自覚できるようになった。それでも、「感情と理性の公平な裁判」は突然できるようにはならない。何十年も自分に馴染んだ“癖”というものは、意志の力だけで変えられるものではないからだ。

「今この瞬間から箸の持ち方を変えろ」と言われても、いきなりできるようになる人はいないだろう。ついついいつもの持ち方をしてしまい、しばらくしてから「ああ、また前の持ち方をしてしまった」と気が付いて、直す。「持ちにくいなぁ、元に戻したい」とも感じるだろう。それでも、何度も何度も間違って直してを繰り返し、手に馴染ませていくしか道はない。

思考癖の修正も、これと同じである。30年以上もの時間をかけて醸成された癖を矯正しようというのだ。そう易々と変えられるものではない。箸の持ち方と同じく、間違えて直すことを何度も繰り返し、“新しい癖”を脳と体に覚え込ませるほかないのだ。

 

 

一進一退を繰り返す状況に、現実がさらに追い込みをかけてきた。このときの私は、生活のために始めたはずのチャットレディの仕事をバックレて、苦しい生活がさらに苦しくなったタイミングであった。

前述の通り、思考の癖を修正するには反復が大切なので、あまり間を空けすぎず定期的にカウンセリングに通う必要がある。先生からは、2週間に1度カウンセリングに通うことを勧められていた。1回のカウンセリングに必要な費用は10,000円。月20,000円をねん出することが、そのときの私にはとても苦しかった。

一度、お金を払うのが苦しくて、いつもよりよりも間隔を空けて次の予約を取ろうとしたことがあった。すると、先生から「大変なのはわかるけど、通う目的をしっかり考えたほうがいいのではないですか」と、正論を突き付けられた。私は「そうですよね」と返して、いつも通り2週間後の予約を取って、お金が苦しいことを相談できなかった。

 

先生の言うことは、いつも理論的で正しくて、反論の余地がない。すこし言い方も冷たいので、「怒られている」と感じて返す言葉が無くなってしまうことが何度かあった。カウンセリングの成果は感じているし、信頼のおける先生だとは思っている。しかし、回を重ねるごとに、先生の物言いや態度が心に刺さることが増えていった。

 

お金は苦しい。先生の態度に心が曇る。それでも、なんとしてもバックレをなおさなきゃ。

“なおしたい”が、いつの間にか“なおさなきゃ”に変容していることにも気が付かず、とにかくカウンセリングに通い続ければ道は開けるはずだと、なんとかひねり出したお金を手に、カウンセリングに足を向けた。

5-1.バックレの根底にある“負荷”の正体は……

 

お試しカウンセリングを受けてから1週間後、私は再度カウンセリングルームへと足を運んだ。これからバックレ克服を目指して、本格的なカウンセリングを開始していく。

前回のカウンセリングで、先生は「逃亡は心理的な負荷に対する脳の防衛反応だ」といっていた。はたして、私のバックレの根底にある“負荷”の正体は明らかになるのだろうか。

 

 

カウンセリングがはじまると、まずは私の育成環境や家族構成の分析、それから発達障害アダルトチルドレン自尊感情など度合いを測る性格診断を行った。
結果としては、発達障害にもアダルトチルドレンにも該当せず、性格診断も特に問題のある性質は見当たらなかった。つまり、私のバックレ癖はやはり病気や障害によるものではなく、他に原因があるということだ。

 

診断が終わると、これから行う「認知行動療法」について説明を受けた。認知行動療法とは、ストレスを感じた出来事や状況に対して自分がどのような行動や思考、感情を持ったのか把握し、自分の思考の癖、つまり“認知”の修正をはかるという心理療法である。

具体的に何をするかというと、「アセスメントシート」と呼ばれる用紙に、問題となっている出来事や状況、そのときの思考、感情、行動を書き出し、可視化することで行動に至った原因を探っていく。

カウンセリングのメインは、この認知行動療法による思考や行動パターンの修正作業となる。これから毎回のカウンセリングでは、これまで私が行なってきたバックレの詳細をアセスメントシートに書き出して、バックレに至った原因を突き止め、そして対策を練っていくのだ。

 

今回は、ライティングセミナーの講師の紹介で起業家コミュニティに所属したものの、突然関係者と連絡を絶って行方をくらませてしまったという直近のバックレ事案について分析することにした。講師の仲介もあって案件にありつくこともでき、起業家仲間にも恵まれ、やることさえやっていれば安泰な環境を築ける状況だったのに、仕事も全てかなぐり捨ててバックレてしまったものだ。

この件について、アセスメントシートに書き出すと以下のようになる。

 

【出来事や状況】
セミナー講師の紹介で起業家コミュニティに所属し、その中で仕事を受注することもできた
・案件に全く手を付けないまま、コミュニティからバックレてしまった
・多くの人から安否確認の連絡がきたが、全て無視して着信拒否し、つながりを絶った

【思考やイメージ】
・ライターとして活動の幅が広がりそうで、今後の展望が楽しみ
・せっかく紹介してもらった案件なので、期待に応えられるよう頑張りたい
・仕事をするのが怖い、何も手に付ける気が起きない
・コミュニティの人に会いたくない、怖くて連絡を取りたくない

【感情】
・やらなければという焦り
・将来への不安、恐怖
・思った通りに動けない自分への自己嫌悪

【行動】
・仕事に手を付けず、自宅でネットサーフィンなどをして過ごす
・コミュニティの人から連絡があっても無視する、会わない
・コミュニティ以外の人とは普通に接することができる

 

このように、状況に対する自身の感情や行動を可視化する。
そして、書き出した事項のひとつひとつについて「なんで?」の問答を繰り返していくのだ。

 

なんで仕事に手を付けられなかった?
なんで期待に応えて頑張りたいと思った?
なんで連絡をとるのが怖かった?

こうように「なんで?」と問うことで内心を探り、出てきた答えにさらに「なんでそう答えた?」の問いを重ねる。問いを重ねることで、行動や感情に至った一番根っこにある原因を手繰り寄せていく。こうすることで、「人の期待を気にしないようにしましょう」といった表層的な答えで終わることなく、根源的な対処法を立てるためだ。

 

さて、先生からは、アセスメントシートの内容について以下のような問いが繰り出された。

 

「“期待に応えらえるように頑張りたかった”とあるけど、期待に応えようと思ってしまったのはどうしてでしょう」

 

私はさっそく答えに詰まってしまった。「なんで期待に応えたかったの?」なんて聞かれても、「そりゃ目をかけてもらってる人から期待をかけられたら応えたいと思うでしょうよ」としか思えなかった。

が、そこで思考停止しては認知行動療法の意味がないのだ。そのときの心理状態を一生懸命思い返して、なんとか頭の中から答えをひねり出す。

 

「紹介してくれた講師に目にかけてもらっていたので、頑張りを見せたかったというか……紹介してよかったと思ってもらいたかったんです」

「目にかけてもらってたというのは、具体的にどういう状況?」

「ええと、ライティングセミナーの先生だったんですけど、すごくいいコミュニティまで紹介していただいて、そのおかげで案件も取れたし……」

「コミュニティを紹介するのは特別なことなんですか? あなただけ特別に紹介してくれたの?」

「いや、他の人にも紹介してましたね……」

「じゃあ、あなたはどうして“自分は他の人より期待をかけられているから、それに応えなきゃ”って思ってたんでしょうね」

「…………」

 

答えが思い浮かばず、少しの間黙って考え込んでしまった。

そう言われてみれば、コミュニティを紹介されていたのは私だけではなかったし、案件だってお互いの条件が合いそうだったから「まずやってみましょうか」という話になっただけだ。起業家コミュニティなんだから、そんなの自然な流れである。じゃあ私は何に対して期待を感じていたんだろう。だいたい、コミュニティに人を紹介すると運営からバックがあるはずだから、紹介は講師本人にもメリットがあっただけだ。

思い返せば、私は仕事でもプライベートでも「期待に応えなければ」と考えることが多かった気がする。大学のサークルでも「みんなの期待に沿うリーダーでいよう」と思っていたし、仕事においても「期待以上の仕事をして認めてもらいたい」と思っていた。

そうだ、状況がそう思わせたんじゃない。私はいつだって、人からの期待を意識してきたんだ。

 

「この件だけじゃなくて、他の仕事でもプライベートでも、“期待に応えよう”っていつも考えていたように思います。そう思うことが癖みたいになってたのかな……」

「なるほど。でも、結局は期待に応えるイメージとは裏腹に、“仕事が怖くなってしまった”と書いてありますね」

「そうですね……これも、何が怖かったかっていうと、期待に応えられないことが怖かったんだと思います」

「それはどうして?」

「どうして……ええと……相手の期待に応えられなくて、ダメなやつだと思われたくなかった、から、ですかね」

「期待に応えられないとダメなやつだと思われてしまう、と感じる?」

「なんというか、相手にガッカリされたり、能力が低いと思われたり、見限られたりしたくないという気持ちがあります。いい仕事してくれたな、頼んでよかったなと思ってもらいたい、一目置かれたいという気持ちがあって、それができなかったらどうしようと思って、怖くなってしまう……」

 

自分で話しながら、どんどん不思議な感覚に陥っていた。
なんだか私は、まるで他人の目ばかり気にして生きてきた人間みたいではないか? いや、まさか。そんなんじゃないはずだ。
私は輪の中心になることが多くて、リーダー的存在で、自分の意見をはっきり口にすることも得意な人間じゃないか。だからこそ、自分の意志を貫いて、フリーランスとして独立する道も選べたのだ。いや、でもバックレまくって仕事は結局成立していないし……。

もしかして、私は人からの期待を一番に気にして、ガッカリされることに怯えて生きてきたんだろうか。そうだとすれば、その感情が私をバックレに導いてきたのか?

まさか、私がこんなに人からの視線を気にして生きてきたなんて。まさか、私が。

 

「“期待に応えられなくてガッカリされたくない”といいますが、そう思ってしまうのはどうしてなんでしょう」

 

先生の問答は、容赦なく続く。

 

「どうして……それはだって、期待通りの仕事が帰ってこなかったら、相手はガッカリするだろうから……」

「それはどうして? 実際にガッカリされたり怒られたり、トラウマになるような経験がありましたか?」

 

あったっけ。過去の出来事が頭の中をぐるぐると巡る。しかし、どんなに思い返してもそんな記憶に心当たりはなかった。

幼少期に優等生として生きてきた私には、怒られた経験がそもそも少ない。高校時代は遊び惚けすぎて数学と化学で赤点を取ったこともあったけど、両親がガッカリした顔を見せたことは特になかった。サークルや仕事をバックレたときだって、怒るよりも心配してくれる人の方が圧倒的に多かった。

 

「……いや、怒られたりとかは、特になかったと思います」

「それなのに、あなたが“ダメなやつだと思われてしまう”と思い込んでしまっていたのは、どうしてなんでしょうね」

 

どうして? どうしてってどういうことだろう。期待に応えられなかったら相手をガッカリさせるなんて、そんなの当たり前のことじゃないのか。
けれど、こうやって思い返してみれば、バックレなんて最大の期待外れを起こしたにも関わらず、怒るどころか心配してくれた人がたくさんいた。なのにどうしてガッカリされることに怯えていたんだろう。

問いに対する答えが見つからず、黙ってしまった私に、先生がヒントを出してくれた。

 

「つまり、あなたのことダメだと思っているのは、他人じゃないってことですよね」

 

ドキッとした。
先生の言う通り、確かに周りの人から「お前はダメなやつだ」と言われた経験があるわけじゃない。つまり、「人の期待に応えなくちゃいけない」という考えは、私の思い込みだったということだ。そう、“思い込み”だったのだ。

だとすると、私のことをダメだと思っているのは他人でなく……

 

「……私自身?」

「そういうことです。つまりあなたの思考の根本には、自己否定があるわけです」

 

 

自己否定……私が?

 

 

正直、腑に落ちなかった。

だって私は、明るくてポジティブで、思考バランスのいい人間だから。人当たりがよくてコミュニケーション能力も高いので、人間関係でもめた経験だって少ない。そういった自分の特性や能力に自信だって持っている。

 

そんな私が自己否定だって? 

 

全くピンとこなかった。自分が自己否定しているなんて、そんなの今まで感じたことがない。
ないけれど、でも、バックレてしまうときはいつも人からガッカリされることを怖がっていたことも事実だ。

 

「……正直、ピンときません。私はポジティブだし、自分のことを卑下したりとか、そんな感情を感じて生きてきていません。自己否定をしてしまっていると、自分で感じたことがないです……」

少し考えて、そのときの気持ちをそのまま先生に伝えることにした。

すると、先生からこう問いかけられた。

 

「バックレてしまうときってどういう心境ですか? なんでそう思ってしまうんだ、ちゃんとできないんだって、逃げたくなってしまう自分のことを責めたり、否定したりしてないですか?」

 

何も言い返せなかった。その通りだったからだ。

バックレてしまうときはいつも、焦りや自己嫌悪で心がいっぱいになる。どんなに責め立てても思い通りに動けない焦りと、ちゃんとできない自分への自己嫌悪で、心の中がぐちゃぐちゃになってしまう。先生の言う通りだ。

だとすると、私の言っていることは明らかに矛盾している。私はさっき、自分のことをポジティブで自尊心の高い人間だ、自己否定を感じたことがないと言った。けれど、バックレてしまう自分に嫌悪を感じていることを自覚している。バックレている最中はネガティブな感情で心の中がドロドロになるのを知っているのに、先生の問いにそう答えられなかった。

つまり、自己否定している自分を、見て見ぬふりしていただけだ。私の心にかかっていた“負荷”の正体は、先生の言う通り自己否定ということなのだろうか。

 

「あなたはつまりね。やりたくない、逃げたいっていう感情を否定して、理性で抑え込んできてしまったの。要するに、自分で自分にダメ出ししていたんですね。ダメ出しっていうのはただの自己否定だから、大きなストレスになるんです。
でもね、本来やるべきことは反省なんです。反省っていうのは、原因を明らかにして対策を準備すること。
あなたはこれから、ダメ出しではなくて、反省ができるようになっていけばいいんです。感情を理性で押さえつけるのではなく、感情と理性で公平な裁判ができるように、思考の癖を修正していきましょう」

 

先生の言っていることは理解できた。自分は自己否定していたのだということも、ここまでくれば認めざるを得ない。
しかし、やっぱりどこか納得しきれない。

 

「うちのカウンセリングに通っている人は、みんな共通して根底に自己否定の癖があるんですよ。自己否定が癖になっていると、感情が負のスパイラルに陥るんです。ストレスを感じて、それが問題行動を引き起こす。あなたの場合は、逃亡してしまう。そんな自分をさらに否定して、余計にストレスを感じて、また問題行動を起こして……これを繰り返して、自尊心がどんどん低くなってしまう」

「私、あんまり自分がそういう傾向を持っているように思えません。物事を楽天的に考える方だし、自分の能力に自信も持っているし……」

「そうなんだよね。診断結果見ても、あなたは自尊心あまり低くないんですよね」

 

カウンセリング前に受けた診断の中には、自尊心の程度をはかるものも含まれていた。その結果を見ると、私の自尊感情は高すぎず低すぎず、ちょうどいい値を示していたのだ。

 

「これは多分、回避がうまいからだね」

「回避?」

自尊感情が下がる前に、全部シャットアウトして逃げてきたから、スパイラルに陥らなかったのでは」

 

つまり、ストレスを感じると全部を無かったことにして逃亡し、リセットしてきたため、自己否定スパイラルに陥らずに済んだ、というのが先生の仮説だ。逆にいえば、自尊心を下げないために、自分の心を守るために逃亡していた、ともいえるだろう。私の自尊心は、バックレによって守られていたのだ。

しかし、カウンセリングの上ではこれは“タチが悪い”ともとらえられる。自覚がないことには、対処のしようがないからだ。現に、上記の通りの無自覚さによって、10年ものバックレとともに過ごす羽目になった。

 

 

 

ともかく、バックレを克服する上での今後の目標が明確になった。

ひとつは、自己否定している自分を自覚できるようになること。ここまで散々指摘されてきたが、やはりこの時点ではいまいち実感が持てていなかった。まずは、心の中の自己否定を認識し、そのときの感情の動きをしっかりとらえる必要がある。

そして、感情を理性で押さえつけず、感情と理性で公平な裁判ができるようになること。自己否定とは、湧き上がってきた感情を認めず、「こうしなければならないんだ」と理性で無理やり押し込めることだと先生はいった。こちらも、まずは感情を押さえ付けている自分を知覚して、地道に修正をはかっていく。

 

「克服するまでにどのくらいかかりますか」と尋ねると、「どんなに最短でも半年、1年以上かかることもある」とのことだった。

これから半年~1年以上、月1、2回のペースでカウンセリングに通い、新しい思考を身に付けていくのだ。

 

長い道のりが始まった。

 

これから私は、自己否定癖を自覚して、その思考の癖を修正していかなければならない。そのためには日々の意識づけが必要になるため、宿題が出されるのだ。

 

前進できたような、やっぱり納得できないような気がするカウンセリングだった。

4.「バックレ癖」の相談でカウンセリングに行ってみた

 

無駄に高い行動力でさっそくお試しカウンセリングを予約してからの1週間。

 

 

意気揚々と予約をとったにも関わらず、カウンセリングの日が近づくにつれて、私の胸の内にはなぜかどんどん憂うつな気持ちが広がっていた。予約当初の意気揚々ぶりは一体どこにいってしまったというのだろう。カウンセリングが必要だと自分で決めたはずなのに、憂うつになる理由が自分でも全くわからなかった。

その気持ちは日に日に強くなっていき、カウンセリング当日を迎えても変わらないままだった。むしろ、家を出る瞬間、電車に乗る瞬間、最寄りの駅に着いた瞬間と、カウンセリングが近づくほどに拍車がかかっていった。不安のような焦りのような感情がじわじわ胸の奥に広がって、カウンセリングルームの扉の前に立った時にピークに達した。

 

どうしよう、行きたくない。このままバックレてしまいたい。

そんな気持ちでいっぱいだった。
まさかここまで来てもバックレの衝動に駆られるなんて……。逃げたがっている自分に対して、焦りでいっぱいだった。バックレを克服する道を模索してやっとここまで辿り着いたのに、そのカウンセリングすらバックレるようではもう救いようがないではないか。

 

今日だけはバックレるわけにはいかない。なんとか足を運ばなければと思い、この気持ちを整理しようと試みた。

おそらく、私はこのカウンセリングに大きな期待を抱いている反面、その期待が裏切られることが怖いのだ。ここまで辿り着くのに10年近い時間を費やし、相談できそうなカウンセリングルームをやっと見つけて、藁にもすがる想いでここに来た。そのカウンセリングでなんの成果も得られなかったらどうしよう、バックレの相談なんかして鼻で笑われたらどうしようという想いを、心の底で抱えている。
バックレを克服することを切望しているのに、足が止まってしまうのはその不安が的中することが怖いからだろう。

しかし、怖いからといってここでまたバックレるようではどうしようもない。数分間扉の前をウロウロしたが、お試しなんだから大丈夫、もしダメでもまた別のカウンセリングルームに行ってみようと自分を鼓舞し、なんとか足を踏み入れることに成功した。

 

 

中に入ると、まず出てきたのは受付係の男性だった。待合スペースに通され、椅子に座ると温かいハーブティーが出された。ハーブティーというところが、なんかカウンセリングルームっぽいな、と思いながら数口飲んで緊張を和らげようとした。
その場でお試しカウンセリングの対応範囲や免責事項の説明があり、数分後に先生が待つ別室へと案内された。いよいよ、カウンセリングの始まりである。

 

「こんにちは、どうぞ座ってください」

柔らかい暖色の間接照明で、目に優しい明度に調節された室内には、重厚な机と椅子が一組、そこに向かって置かれた一脚の椅子の側には、小さなサイドテーブルが添えられていた。テーブルの上には、さっきまで私が飲んでいたハーブティーティッシュ箱が置いてある。その足元にはゴミ箱も設置されていて、配慮があるなぁと頭の隅で思いながら、椅子に腰を下ろした。

黒い革張りの椅子には、机の上で手を組み合わせた先生が座っている。アイロンのかけられた無地のシャツを第一ボタンまできっちり留めた先生は、眼鏡の奥の鋭い目が少し冷たくて、神経質そうな印象だった。カウンセリングルームの先生というと、もっと物腰柔らかで穏やかにしゃべる人を想像していたので、胸に抱えた緊張がじわりと一回り大きくなったような気がした。

 

「緊張してますか?」

私の様子を見て、先生が尋ねてきた。

「はい、少し……」

そう答えたけれど、本当はとんでもなく胸がドキドキして、何をどう喋ればいいのか頭の中でごちゃごちゃと思考が駆け巡っていた。
思い返せば、バックレのことを他人に話すのは、人生の中でこれが初めてなのだ。家族にも友人にも、とにかく上手くいっている風を装って、ズタボロになっていることをひた隠しにして生きてきた。隠しに隠し通してきたその人生の恥部を、これから他人に話すのだ。プロが相手とはいえ、緊張せずにはいられなかった。

 

「さて、じゃあ相談内容を話してみてください。ゆっくりでいいですよ。上手にしゃべろうとしないでいいので」

アイスブレイクとかないんだ、いきなり始まるなんだな、とも感じたが、「上手にしゃべらなくていい」という一言が、少し心を軽くしてくれた。

ふぅ、と一息ついてから、私は少しずつ、自身のバックレ癖で人生が崩壊しかけている現状を説明し始めた。

 

何かを始めても、絶対に途中でバックレてしまうこと。
大事になってしまうとわかり切っていようが、無理やりにでも逃げ切ろうとすること。
10年間で数えきれないほどバックレを繰り返し、とんでもない数の人に迷惑をかけてきたこと。
一方で、家族や昔からの友人にはいつも通りの自分を取り繕ってしまうこと。
バックレ癖のせいでまともにお金が稼げず、大変な思いをしていること。

 

話しているうちに声が詰まって、次第に涙が溢れて、最後の方はもう嗚咽交じりで絶え絶えに話すほど号泣してしまった。
バックレのことを人に話すだけでこんなに感情が爆発すると思っていなかった。止まらない涙を拭いながら、あぁ、私本当にもう限界だったんだな、と自覚した。人生が崩壊していっていることを感じていながら、それでもバックレを止められない狂気じみた自分に、たった一人で対処するのがもう限界だったんだ。怖くて辛くてたまらなかったんだ、私は。

 

一通り話を終えた私は、それだけでも肩の荷が軽くなったように感じていた。やっと、やっとバックレのことを他人に話すことができた。

先生は、私の涙に動じず、途中でティッシュを使うように促したりして、ただ静かに話を聞いていた(こうやって泣く人が多いから、ティッシュとゴミ箱が置いてあるのか、と思った)。

 

「うつとか発達障害じゃないと思うんです。
でも、なんでこんなに追い込まれてまでバックレがやめられないのか、
自分でもわからないんです」

話の最後に私がそう言うと、先生は力強く

「うん、うつとか発達障害とかじゃないだろうね。
そこは僕もそう思いますよ」

と返してくれた。

さらに先生はこう続けた。

「そんな状態になってまでバックレを止められないっていうのは、大変でしたでしょうね。
 自分を制御できない自分を、
 あなたは怠惰でダメな人間だと思っているかもしれませんけど、
 そういうことではないと思います。
 逃げっていうのは、身体のシグナルです。
 バックレなければならない原因が、なにかどこかにあったんですよ。
 負荷がかかると防御するように、脳はうまくできている。
 あなたが怠惰だからバックレてしまったとかじゃない。
 その負荷がなんだったのかわかれば、対処することはできますよ」

 

怒られなかった。そのことに、まず安堵した。
何をやってもバックレてしまうなんて、そんな他人に理解されないだろう奇怪な行動に、ちゃんとした専門家の意見をもらうことができた。しかも、前向きに頑張れとか気にしすぎだとかの根性論ではなく、「脳が体を守ろうとしているだけだ」と言ってくれた。さらに、「対処することができる」とも。
その事実だけでも、とても心が軽くなったし、苦労してカウンセリングルームを探してよかったと感じていた。

一方で、先生の言うことにはピンとこない部分もあった。私にかかっていた“負荷”というものに、思い当たる節がなかったことだ。
大学時代やブラック企業時代のことを考えると、確かに張り切りすぎて無茶をしてしまった部分があった。あれについては、“負荷”に対する防衛反応といえるかもしれない。

しかし、フリーランスになってからはどうだろう。私は自分のやりたいことを仕事にして、バイタリティ溢れる人々にたくさん出会って、胸をワクワクさせながら仕事をしていたはずだったのだ。
自分の気持ちを大切に、自由に仕事をしていたはずの私にかかっていた“負荷”とは一体……?

 

 

その答えが一番気になるところだったが、今回はあくまでも「お試しカウンセリング」である。“負荷”の正体は定期的にカウンセリングに通いながら徐々に明らかにしていき、複数の心理的アプローチによってその修正をはかっていくと先生は言った。

先生の少し冷たく感じる淡々とした話口調が気になる部分はあったが、バックレ克服に向けて一筋の希望を感じた私は、今後もこのカウンセリングルームに通うことを決めた。

 

 

その日の最後に、こんなことも話した。

 

「実は私、バックレのことを人に話すの、今日が人生で初めてだったんです」
「誰にも? 家族とか友達とかにも、誰にも相談したことなかったの?」
「一切ないです。今日、初めて他人に打ち明けました。
 だから本当はすごく緊張してました。
 家族になんて……こんなこと一番言えないです」
「なんで言えなかったんだろうね?」
「え?」
「なんで人に相談する気が起きなかったんだろうね。引かれるのが怖かったとか?」
「なんで……え、なんでだろう」
「そこにヒントがありそうですね」

 

こんなこと人に言えるわけがない、とばかり考えていて、「なんで言えないのか」なんて発想は当然私の中にはなかった。だから、先生から問われたとき「なんでなんて、そんなこと聞かれても……」と思ってしまった。
引かれるのが怖い……確かにそれはあると思う。社会人として失格すぎるとんでもない姿を、他人に見せられるわけがないと考えていた。
そんなの当たり前じゃないかと思ってきたけど、もしかして当たり前ではなかったのだろうか。私が気付いていないだけで、本当は別の理由があったんだろうか。

 

 

“負荷”の正体は一体なんなのか。原因を見つけてバックレを克服することはできるのか。
また1週間後に本カウンセリングの予約をとって、その日は終了となった。
他人に話せたことへの安堵とバックレ克服が現実的になった希望。私をじわじわと蝕んでいた焦りと不安が少しだけ減って、代わりに高揚感を抱きながら帰路についた。

3.カウンセリングに行こう

もはや崩壊しかけている人生を冷静にながめて、ようやく決心した。

「カウンセリングに行こう」

 

自分は普通な人間なんだと、ずっと思ってきた。本来の自分は優秀なんだと、やりさえすればできるのだ、バックレさえしなければ、ちゃんとした結果を残して成功できるのだと、そう信じて生きてきた。
だから何度も何度もやり直したのだ。今度こそ大丈夫だと自分に言い聞かせて、大学を中退してからの9年間、何回もやり直そうとした。

でも、それだけでは何も解決しなかった。こんなに人生が追い込まれても、なおバックレを繰り返してしまうのはなぜなのか、ついぞ自分ではわからなかった。私は、自分では制御できない問題を、なにかどこかに抱えているらしい。それが一体何なのか、自分一人で気が付くことが、9年かけてもできなかった。
また1人でやり直そうとしたところで、また同じようにバックレを繰り返すだけだ。自分1人でなんとかしようと思っても、もうダメだ。これ以上、人生が取り返しのつかないことになる前に、専門家の力を借りるべきなのだ。
9年かけて、やっとその考えにたどり着くことができた。

 

バックレのことを専門家に相談する、というのがどういうことなのかよくわからないけど、とにかくカウンセリングに行ってみればいいのだろう、と考えていた。心療内科や精神科ではなくカウンセリングだと思ったのは、病気以外の相談も幅広く受け付けてくれそうなイメージがあったからだ。自分がうつ病などの精神障害ADHDなどの発達障害を抱えているようには、どうも思えなかった。

だが、いざ都内のカウンセリングルームを調べ始めようとして、ふと疑問が湧いた。

はて、バックレ癖を診てくれるカウンセリングなんて、果たしてあるのか? あるとしても、どうやってそこにたどり着けばいいんだろうか。

とりあえず、Googleの検索窓に「バックレ カウンセリング」「逃げ癖 克服」とか、思いつくキーワードを適当に入力してみた。すると、検索画面に表示されたのは、次のような結果だった。

「バックレてしまう従業員の5つの特徴と対策は?」
「仕事をバックレるとその後どうなるの?」
「カウンセリングをバックレてしまいましたが、どうしたらいいでしょう」

ググれば大抵のことは解決できるものだと考えていたが、ここまで何も得られないことがあるのか。バックレのことを相談できそうなカウンセリングの情報など、いくら次のページをクリックしても、ちっとも得ることができなかったのである。
まさか、バックレの相談先を探すのにこんな苦労が待っているとは思わなかった。東京都内にはカウンセリング施設なんていくらでもあるんだろうから、相談先に困ることなんてないと考えていた。甘かった。

しかし、収穫はあった。今回の検索で、私と同じように自身のバックレや逃げ癖で頭を悩ませている人からの相談が、Yahoo!知恵袋に数多く寄せられていることを知ったのである。知少し探すだけで「嫌なことがあるとすぐに仕事をバックレてしまいます」「逃げ癖はどうやったら克服できますか」といった投稿を、いくつも発見することができた。

ただ、まっとうな回答がついている投稿はひとつもなかったので、バックレ克服の参考にはならなかった。が、とにかくバックレが癖になって困っている人間は、私以外にも間違いなくいるということはわかった。だが、それでカウンセリングを受けようという人は、かなりレアな存在なのだろう。
簡単に考えていたが、もしかして、バックレの相談を受け付けてくれるカウンセリングなんて存在しないのか……?

 

 

そこで、「バックレ」というキーワードにこだわらず、カウンセラーやカウンセリングルームの情報発信を幅広く収集することにした。そもそも、カウンセリングルームというものに対する私の知識が漠然としすぎていて、何が相談できるのか根本的によくわかっていないと感じたからだ。

検索を始めると、カウンセリングルームが公開している記事やコラムだけではなく、付近のカウンセリングルームを探せるポータルサイトやカウンセラーに相談できる掲示板といったものも見つけることができた。
どんな相談ができるものなのかと、掲示板に寄せられている相談を覗いてみる。すると、「逃げ癖をなおしたい」「中途半端に仕事を投げ出して辞めることを繰り返してしまう」といった質問をいくつか発見することができた。やはり、バックレで悩んでいる人は私以外にもいるようだ。

が、そこについている専門家の回答は「まずは、気軽にカウンセリングを受けてみてくださいね」というものばかりだった。ネット上で相談できるといっても、本格的なカウンセリングはやはり施設でなければ対応してくれない様子だった。まぁ、それは仕方がない。掲示板に投稿された表面的な情報だけで人の内面の奥深くを診断することができないのは、当たり前といえば当たり前だ。

ひとまず、バックレの相談をしにカウンセリングに行ってもいいらしいということはわかった。となると、近場でバックレの相談を受けてくれそうなカウンセリングルームを、しらみつぶしに探すしかない。今度は、通える範囲内にあるカウンセリングルームのホームページをひとつひとつ巡回して、相談を受け付けてくれそうなところを探していった。

 

探し始めてから5日ほど経って、ようやくこれだと思えるところを1つ見つけた。気に入ったポイントは、以下の2つである。

精神疾患発達障害の相談だけでなく、仕事や恋愛など人生の悩み全般の相談を受け付けていること
・無料で受けられるお試しカウンセリングがあったこと

当たり前の話だが、多くのカウンセリングルームは、相談内容の例として「メンタルの不調」や具体的な「精神障害」、あるいは「メンタルの不調からくる体調不良」「内面に由来する人間関係の悩み」などをあげている。ホームページには、うつや発達障害アダルトチルドレンPTSDといった専門用語が羅列されており、私としてはどうにも尻込みしてしまった。

私の抱いている「バックレ癖をなおしたい」という悩みには、おそらくだがうつや発達障害といった背景があるわけではない。人生の中で長い時間をかけて構築されてしまった行動習慣を矯正したいという話なのである。
そういうわけで、精神疾患名がずらりと並ぶホームページを見ても、バックレの相談はできないさそうだと感じてしまったのだ。

その点、やっと発見したこのカウンセリングルームは、恋愛や仕事、人間関係などの悩みについて受け付けていると書いてある。さらに、私が惹かれたのは次の一文だった。

「頭では理解しているのに行動が伴わない。その根底にある“考え方のクセ”を修正します」

“考え方のクセ”を修正する。
私が求めているのはこれなのではないか、という予感がした。ここならバックレの根底に隠れている何かを見つけ出し、克服することができるのではないかという期待に、胸に沸き上がった。

お試しカウンセリングがあるというのも、敷居を低くしてくれた。「バックレの相談はできるのか」というそもそもの疑問を解消するためだけでも、お試しであれば訪ねやすい。

思いのほか時間をかけて、ようやく良さそうなカウンセリングルームを見つけることができたのだ。まずは、行ってみよう。
行動力だけは無駄に高い私は、さっそく予約の手続きをとった。専用フォームからメールを送ると、約1週間後にお試し相談が決まった。

2-2.バックレの歴史を振り返る~フリーランス編~

 

 「自分の気持ちに正直に、やりたくないことを無理してやるのではなく、やりたいことを選んでやるようにすれば、バックレる必要はもうなくなるはずだ」

そう考えて、私は再就職をせず、フリーランスのWebライターになる道を選ぶことにした。

 

 

意外にも順調に滑り出したフリーランス生活…?

大した準備期間もなく、突然フリーランスとして独立するのは無謀な道であることに違いなかったが、算段はあった。超ブラックなIT企業でWebサイトの企画や運営に携わっていたため、Webライターとして必要最低限の知識と経験はある程度身に付いていたのだ。それに、単価さえ気にしなければ、Webライターの仕事はネット上に溢れかえっている。頑張って働けば、まぁなんとか食っていけるだろう、と能天気に考えて踏み出した。それに、再就職してもきっとまたすぐに辞めてしまう確信があったため、どうにも就活をする気にはなれなかった。

事実、突拍子もない独立であったにも関わらず、仕事を受注することには成功していた。最初はクラウドソーシングを使って比較的マシな単価の案件を受注し、同時に起業家向けの交流会やセミナーに参加して人脈を作っていった。人に気に入られるのが得意なので、行く先々で成功を収めている起業家の人たちとつながりを作って、仕事の約束を取り付けていった。
私はほっと胸をなでおろしていた。やっぱり、私の勘は当たっていたんだ。自分がやりたいと感じて、自分で選んだ仕事をしていれば、私はもう、逃げる必要なんかないんだ。これでもう大丈夫、やっとまともな社会人として生きていくことができるんだ、と。

 

でも、ダメだった。バックレ癖はなおるどころか、ますます加速していった。せっかく約束を取り付けた仕事の数々をほとんどこなすことなく、怒涛の逃亡劇が幕を開けることとなった。

 

怒涛のバックレ劇

クラウドソーシングを通してセールスコピーのライティングを依頼してもらったときは、私の経歴をかってクラウドソーシングにしては高単価な条件を提示してもらった。チャットやスプレッドシートを使ってやりとりしていた途中で、突然連絡を返さなくなり、そのままバックレた。やりとりに使っていたスプレッドシートに「無責任な人ですね」と、怒りのコメントが付いていたことが思い出深い。

ある交流会で出会ったマーケターの方には、Web広告のライティングを依頼してもらった。2回ほど打ち合わせを行い、いよいよライティングに取り掛かろう、というところで私の糸がぷっつりと切れた。一度も納品することなく、行方をくらませた。ちゃんと納品していれば、継続的に案件をもらえるに違いなかったのに。

あるとき参加したライティングセミナーの講師はとても面倒見のいい方で、スキルを伝授するだけでなく、所属している起業家向けコミュニティを紹介してくれた。幅広い層の人々と人脈を広げることができ、そこから2件ほど案件の受注にまでつながった。しかし、案件に着手する前に全てを投げ出して、逃げてしまった。FacebookもLINEも、コミュニティ関連の人々との接点は全て削除して、もう接触できないようにした。

立ち上げた事業に参加させてもらうことになった起業仲間からは、プロモーションやマーケティング全般を任せてもらうことになっていた。一緒に事業計画を練り、プロモーションの方向性を話し合って、たくさんの熱い議論をかわしたけど、いざローンチの直前になって逃亡した。なんだか嫌になってしまったのだ。

大手出版社の編集者からは、サブカル雑誌でのコラム執筆を任せてもらったことがある。紙媒体での執筆経験は全くなかったが、たまたまネットで見つけた求人に応募した私の原稿を気に入り、採用を決めてくれた。半年ほどはしっかり納品することができていたが、やっぱり突然手が動かなくなって、納期をぶっちぎってバックレた。未経験の人間が紙媒体での原稿を書かせてもらえるなんて、またとないチャンスだったのに……。

まだまだある。クラウドソーシングで得た仕事は他にも5~6本はバックレたし、セミナーや起業家コミュニティで知り合って迷惑をかけた人の人数はもはや数えきれないほどだ。
読んでの通り、大した実績もないくせに外面が良く、人に気に入られることだけは得意なので、余計にたちが悪い。「ポテンシャルをかってもらう」「人柄を気に入ってもらう」といったことに長けているせいで、次から次に仕事を受注してはバックレるサイクルを繰り返すことが“できてしまった”のだ。

 

ショックだった。「やりたいことだけをやっていれば、逃げなくていいはずだ」という考えが、間違いであったことを認めざるを得なかった。
心躍る仕事を選んできたはずだった。自分を評価してくれる人と組み、能力を活かしてより自分を高められる仕事にチャレンジして、ワクワクを感じながら生きていけるはずだったのだ。

それなのに、私のバックレ癖は、なおるどころかますます加速するばかりだった。「やりたいことをやる」というのは、なんの解決にもならなかったのである。

 

どんどん厳しくなる生活

バックレを続けるほど、生活も厳しくなってきた。当たり前のことだが、フリーランスのライターは手を動かさなければ報酬を得られない。休業手当も傷病手当も頼ることができないのがフリーランスという生き方だ。手を付けた仕事を次から次へとバックレている私は、独立以来まともなお金を稼げていなかった。みるみるうちに口座の残高が減っていって、どうしようどうしよう、と気持ちが焦るばかりだった。それなのに、バックレをやめられないのだ。

これでは生きていけないので、ライターとしての活動を続けながら、派遣で事務やコールセンターの仕事に就き、収入を得ようとした。
が、やっぱりどれも続かなかった。「やりたいことをやる」を信条としてフリーランスを志した私が、派遣の仕事を頑張れるわけがなかった。嫌気がさしたり自分が情けなくなったりして、早いものだと3日でバックレた。
お金が無くなるにつれて、即金で給料をもらえる仕事へとシフトしていった。警備や本の出荷工場、軽作業など日当がもらえるアルバイトを転々とした。どれも1ヶ月持たなかったので、その場しのぎのお金しか得られなかった。バイト帰りにスーパーに寄り、値引きシールの貼られたお弁当を毎日食べて節約をはかった。

そのうちとうとう貯金が底をついて、クレジットカードの支払いができなくなった。学生時代に作ったカードを1枚つぶして、信用情報に傷をつけることになってしまった。
いよいよ後がなくなった私が手を出したのは、男性を相手にする仕事だった。

 

とうとう男性を相手にする仕事に……

最初に選んだのは、チャットレディの仕事だった。チャットレディはパソコンでビデオ通話をつなぎ会話を楽しむものなので、直接体に触れられることがない。慣れれば自宅でもできるということもあり、比較的敷居が低いかと考えた。


数多くの求人情報の中でも「体を見せなくても、話をするだけでもOK」という触れ込みの求人を見つけ、とりあえずそこに応募した。実際に面接に行ってみると「稼ぎたいならまぁ、とりあえずできるとこまでやってみてよ」と言われて、大した説明もなく部屋に押し込まれて、面接初日だというのに突然チャットデビューする運びとなった。
「できるとこまで」と言われていたが、相手の男性は脱ぐのが当たり前と言う雰囲気で会話を進めてきた。押し流されて、あれよあれよという間におっぱいを見せる羽目になっていた。何やってるんだろう私は……。心底自分が情けなくなったけれど、2、3時間で1万円以上の稼ぎを得ることができた。

お金に釣られてそのまま2ヶ月ほど続けていたが、知らないおじさんの言うとおりにおっぱいを見せている自分に急激に嫌気がさして、やっぱりある日突然辞めた。勤め先から特に連絡がくるようなこともなく、気楽にバックレられるのはありがたかった。

次に選んだのは、メンズエステ店で働く、いわゆるメンエス嬢だった。
メンズエステはあくまでも“マッサージ”をする店なので、建前としてはエロいことをする必要がない。しかし、指名を得てよりたくさんのお金を稼ぎたいなら“ギリギリのサービス”でお客を喜ばせる必要はある。
私はこの辺の線引きがうまくできず、客からキスされたり、胸を揉まれたり、嫌な思いをしこたまする羽目になった。パンツの中に手を入れられたこともある。そういう客をうまく制することができず、いいようにされてしまうと、家に帰ってから死にたくなった。

優等生として育って、進学高校を出て、国立大学に入って、優しい家族とたくさんの友達に囲まれて育った自分が、なんでおっさんにおっぱいを揉まれて死にたくなってるんだろう、と思った。フリーランスのライターを目指していたはずが、いったい私は、なんでこんなことになっているんだろうか。
それでもメンズエステの仕事は割がよく、週3で1日4~5時間も働けば生活費は工面することができた。4ヶ月ほど働いたが、やっぱり途中で嫌気がさして、無断欠勤の末にバックレた。

 

バックれても、お茶会には行く

どんなに生活が荒んでも、旧来のコミュニティとは変わらない付き合いを続ける、という行動パターンも以前と全く変わっていなかった。
無断欠勤して取引先や勤め先からの連絡を一切無視し、居留守を使って、逃げた後は全ての関係者と縁を切る。うつ病のようにも見えるが決してそうではなく、ご飯も睡眠もいつも通りにとれるし、遊びにも行く。大学生の頃から変わらない、バックレ発動時の行動パターンだった。
毎日値切り弁当を食べて、極力部屋にこもってお金を使わないようにするほど生活が苦しいくせに、月に1、2回は友達とランチに行ったりお茶に行ったりするところも、変わっていなかった。残高はいつでも底を尽きるギリギリの運用だったが、お金がないそぶりを友達に見せることがどうしてもできなかったからだ。

家族に相談することもできなかった。というか、家族にこそ、こんな悲惨な生活をしていることなんて絶対に知られてはならなかった。大学を中退したとき、すでに1回とんでもない心配をかけて情けない姿を見せている。ちゃんと仕事をして頑張っていると思われなければいけなかった。メンズエステで働いているなんて、そんなとんでもない生活をしていることを言えるわけがない。
とにかく私は、対外的に「いつも明るく元気で、目標に向かって頑張っている自分」を崩すことが、どうしてもできなかったのだ。

 

もう、一人ではどうすることもできない

自分の行動が常軌を逸していて明らかにおかしいことは、もう充分わかっていた。わかっていたけど、目を背けるようにしていた。
次は大丈夫、今度こそちゃんとやろう。やれる能力は自分にはあるんだから、逃げさえしなければできるはずなんだから。
バックレと正面から向き合わないまま次々に新しいことに手を出したせいで、呆れるほど同じことを繰り返してしまった。自分の異常さから目をそらし、騙し騙し人生を送っていたために、お金は無くなって、男性向けマッサージの仕事までするようになってしまった。
会社を辞めて独立し、バックレを繰り返してマッサージの仕事をするようになるまで、たった2年間の話である。

気が付けば30歳を目前に控えていた。
会社員としての経験は4年にも満たず、ライターとしての実績も皆無に等しい。社会人としての土台が全くでき上がっていない30歳なんて、一体この先どうやって生きていくつもりなんだろう。こんなずさんな人生を、私はいつまで続けるつもりなんだろう。こんなにも追い込まれているのに、この後に及んでどうして私はちゃんと仕事ができないんだろう。

どんなに自分を鼓舞しようとしても、気持ちが焦れば焦るほど、余計にバックレを繰り返してしまう。この先の自分の人生が、未来が怖くてたまらなかった。

 

そして、この頃にはもう理解していた。
この問題は、もはや私一人では解決しようがないのだということを。
これ以上一人でなんとかしようとしても、同じことを繰り返すだけなんだと。

 

「専門家に相談しよう」
1Rの狭い部屋で一人、ひっそりとそう決意した。

2-1.バックレの歴史を振り返る~学生時代から社会人編~

 20代の10年間、数えきれないほど“バックレ”を繰り返してきた私。今回は、繰り返し続けたバックレの歴史を振り返ってみたいと思う。

 

初めてのバックレ

私が初めてバックレをやらかしたのは今から約10年前、大学生のときのことだった。
実家から離れた大学に進学した私は、大学近くのアパートで一人暮らしを開始し、大学生らしい自由奔放で自堕落な生活を謳歌していた。正直にいうと勉強はほぼ頑張っておらず、私が夢中になって取り組んでいたのはサークル活動であった。音楽系サークルに所属し、昼頃に起きたら毎日サークル棟に向かって、日が暮れるまで練習部屋にこもる。夜になると仲間たちとご飯を食べるか、居酒屋に向かう、そんな毎日を送っていた。
人当たりは良いが意見をはっきり口にすることも得意である私は、サークルの役員に選ばれて、リーダー役を複数かけ持った。要領もよく、楽器の演奏もうまいほうだったので、仲間の信頼を得ていたし、組織の中心的人物として認められていたと思う。

サークルだけでも慌ただしい大学生活だったが、2年次の後半からは楽器を買うためのアルバイト、3年次からはさらに就職活動も加わった。毎日くたくたに疲れていたけれど、忙しく動き回るのは好きな性分だ。それに、3年次はサークルの中でもメインとして動く学年だったので、私は尚のこと張り切っていた。絶対に成功を収めたい、多少忙しくても私なら乗り切れる、みんなの信頼に応えて頑張るんだと、そう思っていた。

……はずだった。サークルのリーダー役も、楽器を買うためのアルバイトも、就きたい仕事に就くための就職活動も、私の意志で頑張っていたはずだったのだ。
3年前半にある演奏会を終え、次のイベントの準備に差し掛かったときのこと。ある日を境に、私は突然サークルに顔を出さなくなった。本当にある日ぱったりと、行く気がなくなってしまったのだ。行かなくちゃ、迷惑をかけてしまう、とどんなに心の中で思っても、どうしてもサークルに向かう気になれなかった。連絡もせずに、無断欠勤を繰り返した。

心配した仲間からとんでもない量の電話やメールが届いて、携帯電話は一日中震え続けていた。何度も家を訪ねてきてくれた友人もいた。それでも、連絡は全て無視して、居留守を使って断固として話をしようとしなかった。複数の役職をかけ持って、誰より精力的にサークル運営に携わっていた私が突然来なくなってしまって、仲間たちは困っていた。そんなことは私だって理解している。理解していても、どうしてもサークル棟に足を向けることができないのだ。

そのうち、特に仲の良かった友人の一人が、「しんどいんなら、病院まで一緒に行くよ。どこに行けばいいか、私調べてみるから」と連絡をくれた。頑張りすぎた私が、うつ病になってしまったと考えたのだ。
だが、うつ病じゃないことは自分でよくわかっていた。サークルから逃げ回っている裏側で、私はとても元気だったからである。
ご飯は1日3食しっかりと食べていたし、サークル仲間に出くわさない場所や時間帯を選んで外出することも普通にしていたし、家族から連絡があれば、「変わらずにやってるよ」と笑って答えていた。高校時代の友人やバイト先の知り合いなどとはランチに行ったりお茶をしたり、普段通りの付き合いを続けていた。つまり、「サークルに顔を出さなくなり、連絡等も一切無視して逃げ回っている」ことを除けば、私は至って元気でいつもと変わらない日々を送り続けていたのである。

ひどいことしている、という自覚はもちろんあった。あんなにたくさんの時間を一緒に過ごして、笑ったり泣いたり、困難も成功も一緒に経験してきた仲間たちに背を向けて、私はただただ自堕落な毎日を送っている。辞めるなら礼節ぐらいわきまえるべきなのに、それすらもしていない。本当は元気なくせに……。
申し訳なさや焦燥感が胸を掻き立てたけれど、再びサークルに足を向けることがとうとう最後までできなかった。
結局、リーダー役は全て解任され、音信不通のままサークルから静かに去ることになった。リーダーとしてイベントを成功させて、仲間と肩を抱き合って喜び合うという夢を絶たれた私は、家で一人、しくしくと泣いた。自分でサークルに行かなくなったくせに、どうしてこんなことになってしまったのかわからなくて、悲しくて悔しくて、まるで被害者のような気持ちだった。泣きたいのは、私がいなくなった穴を無理やり埋めなければいけなくなった仲間たちのほうだったろうに。

 

サークルのために大学に行っていたような私は、そのサークルに行く必要がなくなってしまい、もはや大学に通う目的を失っていた。勉強を頑張っていなかったツケと、リーマンショックの影響もあって、就職活動も全くうまくいかなかった。嫌気がさして、生活はさらに自堕落になっていった。
そのうち大学に行くことすら少なくなって、最終的には3年の終わり頃というなんとも中途半端な時期に中退することを選んだ。親には「終活がうまくいかず、大学に通うのが辛い。地元に戻ってやり直したい」と言い訳した。

こうして、私は人生で初めて他人に大迷惑をかけて、大好きだったはずのサークル活動からバックレた。そしてこれ以降、数えきれないくらいのバックレ逃亡劇を繰り返すことになる。

 

身を粉にした働いたブラック企業時代

大学を中退して実家に戻った私は、地元の公立大学に三年次編入し、父の強い勧めで在学中から資格取得のための勉強を始めることになった。親の目もあったため、今度はしっかり大学に通うことができ、楽しみも苦しみもない大学生活を無事2年間で終えることができそうだった。
反面、全くはかどらなかったのが資格の勉強であった。そもそも興味のない分野だったし、私は勉強が好きなわけでも得意なわけでもない。ただ中退してしまったことに負い目を感じていたため、父の言うことを聞かざるを得ないだけだった。父には頑張っている素振りを見せるよう努めて、勉強時間の大半をネットサーフィンに費やした。
卒業間際に、1回だけ試験に臨み、「頑張ってみたけど、合格は難しそうだ」と理由を付けて、受験はドロップアウトし、就活に切り替えた。父はあからさまに落胆していたけど、何年かけても受からないことは分かり切っていた。

 

卒業ぎりぎりから開始した就活だったが、すぐに地元のIT企業に就職することが決まった。中退歴があるためそれなりに苦労もあったが、社長が私のポテンシャルを高く買って、即採用を決めてくれた。自分の直下につけ、社会人経験のない私にも難しい仕事をたくさん任せてもらった。実家を出て一人暮らしを再開することもできた。若い社員が多くてみんな仲がよかったし、充足した日々を取り戻すことができたと感じていた。
……が、そう思えたのも最初の1年だけだった。勘のいい方は気付いているだろうが、その会社はいわゆるブラック企業だったのだ。2年目には月の残業時間が100時間を超えていたが、残業代は1円も支給されなかった。給料の手取りは20万円弱で、3年目になっても昇級する気配は微塵もない。もちろんボーナスだってもらったことがない。
いつまでここで働くんだろう……と何度も考えた。けれど、学歴も職歴もない私を拾って、期待をかけて育ててくれた社長の恩に報いたくて、頑張れるだけ頑張った。

ところが、入社3年目が半分過ぎた頃、ある朝起きると会社に行く気力がぱったり無くなっていた。そりゃあ、会社に行きたくない理由ならたくさんある。書き終わってない提案書に、炎上した案件の対応、社長から丸投げされた新規事業のとりまとめ。でも投げ出すわけにいかないと思って支度を進めようとしたけれど、ベッドから起き上がることができず、その日は「体調が悪い」と連絡を入れて休んだ。次の日もやっぱり会社に行く気力が無くて、体調が戻らないと連絡して休んだ。3日目からは、連絡を入れなかった。
その日から、私は2度と会社に行かなかった。上司から鬼のように連絡がきたし、仲のいい同僚はわざわざ家まで様子を見に来てくれたけど、全て無視した。そのまま、“バックレ”状で退社することになった。
うつ病の診断がついてもおかしくなさそうだが、会社を無断欠勤している事実を除けば、やっぱり私は元気だった。会社外の友達とはいつも通りお茶しに行って、家族には元気で働いていると嘘をついていた。大学でサークルを辞めた時の自分と、全く同じだった。

 

ホワイト企業に転職したものの…

ブラック企業を退職した私は、少し間を置いてから再就職に向けて動き出し、一転ホワイト企業に入社することに成功した。そこそこ規模の大きい企業だったこともあり、年収が100万円も増えたし、ホワイト企業なだけあって残業時間は月10時間。残業代も分単位で支給された。
ブラック企業で新人時代からあらゆる仕事を任され、身を粉にして働いてきただけあって、仕事の進め方を褒められることも多かった。次第に、同僚から相談を受けたり、年配の社員からエクセルの使い方を聞かれたり、頼られることが多くなっていった。

しかし、内心では「つまらない」と感じるようになっていた。褒められはするも、仕事内容に張り合いがなく、前職のような充実感を感じられなかったのだ。加えて、同じ部署で働く上司や同僚が好きになれなかった。残業代目当てでダラダラ意味のない残業を続け、無駄話をしているだけなのに遅くまで働く自分を偉いと思っている。そういう大企業的文化になじむことがどうしてもできず、楽しみが見出せなかった。
入社から半年が経った頃、インフルエンザにかかり数日間会社を休んだことをきっかけkに、そのまま会社に行かなくなった。会社からの連絡を無視し続けて、結局また、バックレてしまった。

 

バックレを克服するにはどうすれば…?

ここまでくると、私はいよいよバックレが“癖”になってしまっていることを自覚し始めていた。辞めるにしても、正式な手順を踏んでちゃんと辞めればいいのに、それができない。どうしても無断欠勤をして、最終的にバックレてしまう。一体どうしてこうなってしまうのか、自分でもよくわからなかった。
しかし、まずいことはわかっている。これ以上こんなこと続けていたらとんでもないことになってしまうと思うと、気持ちがどんどん焦っていった。

考えた末に、「やりたくないことを無理やりやろうとしているのが良くないのではないか」という結論にたどり着いた。これまでのバックレを振り返ると、逃げたくなる理由が確かにあったのだ。疲れた身体、どんどん重くなる責任、無茶な労働環境、払われない残業代、楽しくない仕事、嫌いな上司。
そういう嫌なことや納得できないことを、責任感だけで無理に頑張ってきたのが良くなかったのではないか。そうだ、私は自分自身の声に耳を傾けていなかったんだ。自分に正直に、自分の手で選んだことだけをやっていれば、もう逃げる必要なんかないはずだ。

そう考えた私は、再就職することはせず、無謀にもフリーランスのWEBライターになる道を選ぶことにした。

長くなったの、次回に続きます。

1.バックレがやめられなくて、人生がやばいことになった

20代の10年間、何をするにも「バックレ」を繰り返して生きてきた。

バックレとは、関係者に辞意を伝えることなく連絡を絶ち、正式な手続きをとらずに全てを投げ出して逃げ出すことである。「逃亡」と言い換えてもいいかもしれない。20歳のときに初めてバックレをやらかしてから、30歳を迎えるまでの10年間、それはもう、ありとあらゆることから何度も何度もバックレてきた。
会社、アルバイト、サークル、人間関係などなど。その対象がどんなに人生を左右する重大なものだろうと、たくさんの人に迷惑をかけて大事になろうことが目に見えていようと、一度逃げ出したらもう止まらない。逃げきってその対象が人生から消えるまで、何が何でも逃げ通してしまうのである。

「まぁ、物事が続かない人ってよくいるんだから、そんな大げさに言わなくても……」と思われるかもしれない。しかし、私を悩ませてきた「バックレ」というものは、飽き性とか三日坊主とか、そういう“性格”上の話では到底ないように思う。バックレ方がちょっともうヤバいのである。

私は、普段から時間にルーズだったり、約束を守らなかったりするような人間ではなくて、どちらかといえば常識があって何事にもやる気があり、要領よく物事を進めていけるタイプの人間である。自分で言うなよという話だが、周りの人々に私という人間の印象を聞いたら、まず間違いなくそういう答えが返ってくるだろう。
幼少期から友人は多い方だし、人から気に入られたり頼られたりすることが多く、“輪の中心”になりやすい人間として生きてきた。いつも機嫌がいいし、交友関係で悩んでいる様子もなければ、何かに行き詰っている様子もない。至って元気に、健康に過ごしているように見えるだろうし、実際バックレ直前まで普通の生活を送っている。
問題なんか何もない。このままいけば何も困ることなんかないはずなのに、ある日突然、本当に突然に連絡を絶ち、音信不通になってしまうのだ。

当然ながら、いつもやる気で元気なあの子が連絡を絶ったら、周りはものすごく心配する。「あの子が突然連絡を絶つなんておかしい。何かあったに違いない」と私の身を案じて、なんとか連絡をとろうとたくさんの電話やメールが届く。連絡がとれなければ、家まで様子を見に来てくれさえする。
だが、当の私は一切の連絡を無視して居留守を決め込み、何が何でもそのまま消えようとするのだ。「今からでも謝って、無事だということだけでも伝えようか……」なんてまともな考えは浮かばない。逃げきることで頭がいっぱい、というか思考が停止して、もう正しい行動をとることができなくなっている。

元気だったはずの人間が突然姿を消すのだから、大事になって当然である。私だって、逆の立場だったら事故か病気か、何か大変な事態に巻き込まれたに違いないと考えるだろう。そこまで心配して何度も連絡をくれたり、家まで来てくれたりする友人や同僚がいるのだから、本来ならありがたい話である。
それでも、バックレの最中はそんなことも考えられず、追われるほどに余計逃げようとしてしまう。仕事先からバックレた経験も数えきれないほどあり、安否確認が出されて家に警察がきたことすらある。しかも、3回も。

 

いい年した大人の社会人としてヤバいことは痛いほど自覚している。実際、バックレに成功した後は安心感と同時に、とんでもない不安と焦燥感に襲われる。逃げ切ることでいっぱいだった思考が今度は、後悔の想いで満たされる。
「ああ、またやってしまった。どうして毎回毎回こんな無茶な逃げ方をしてしまうんだろう。普通にすればいいだけなのに。なんでまた逃げてしまったんだろう。逃げるんじゃなかった。この先私はどうなるんだろう」と、怖くてたまらなくなってくる。
いつまでもこんなことを続けていたら、いずれ生きていく場所が無くなってしまう。次こそは、次こそはちゃんとやらなければ……と、焦ってまたすぐに新しいことに取り掛かり、やっぱり土壇場でバックレることを繰り返してしまう。

私の逃げ癖には、もう一つ大きな特徴がある。特定の事柄からバックレを決め込んでいる一方で、そのほかの人間関係においては「元気で明るい、生き生きと仕事をしてる私」を崩さいないことだ。安否確認の連絡でひっきりなしに鳴り響くスマホをカバンの中で放置しながら、普通な顔して表参道のカフェで友達とお茶してたりする。家族には会社を辞めたことすら打ち明けずに、「なんとかやってるよ」と平然を装う。
家族や親せき、昔からの親しい友人にも、バックレ癖のことを一切相談しなかった。「誰かに打ち明けよう」という発想すら、微塵も頭をよぎらなかった。迫りくる不安と焦燥が目に入らないように、家族には順調に仕事を続けているそぶりを見せて、友人とはいつも通りの付き合いを続けた。

 

社会人がバックレを繰り返していたらどうなるか。当たり前だが、お金が無くなっていく。まともに働けたことがない私の貯金通帳は、いつも底を尽きるすんでのところでギリギリのやりくりがされていた。焦って即日でお金になりそうな仕事に手をつけるのだが、続かないので大きなお金にならない。
好きなことをこと仕事にすればもうバックレなくなるんじゃないかと思って脱サラし、フリーライターを志すもやはり続かなかった。派遣社員、事務のアルバイト、本の出荷や警備の日当バイトなど、すぐに雇ってもらえる仕事を転々とし、終いには男性向けマッサージの仕事にも手を出した。どの仕事も長く続いて2、3ヶ月で、最後には全部バックレた。
 

これは経験して知ったのだが、人間というのは本格的にお金が無くなると、先の生活への恐怖で余計に思考が停止する生き物らしい。追い込まれれば追い込まれるほど、まともな打開策を考えつくなくなる、いや、考えることを放棄しだすのだ。
生活はどんどん自堕落になり、スーパーで3割引きになった弁当を食べては、布団の中でネット動画を見て過ごす時間が増えていった。口座のお金が足りなくて料金が払えず、学生時代に作ったクレジットカードが利用不能になった。それでも、友達から誘いの連絡があれば、月1、2回はおしゃれなカフェでランチやお茶を楽しんだし、家族にも笑顔で電話をかけた。

 

表ではどんなに普通を装っていても、生活はどんどん苦しくなっていく。もう実家に帰ろうか、何度も迷った。私の実家は、どちらかといえば裕福な家庭だし、毒親なわけでも関係性が悪いわけでもない。
けれども、こんな常軌を逸した生活をしてることを絶対に親に知られたくなくて、どうしても頼ることができなかった。一度だけ、「取引先の支払いが滞っていて」と嘘ついて、母親から30万円だけお金を借りたことがあったが、それだけだった。

実家は裕福で、親との関係も悪く無くて、友達がたくさんいて、人から頼られて、明るく元気で褒められることのほうが多くて、ただ普通に生きてさえいれば、私は幸せに違いなかった。それなのに、何をやっても最後にはバックレて全てを台無しにしてしまう。
お金がない。信用もない。誰にも打ち明けることができない。

 

どうしてこんなことになってしまうんだろう。バックレる理由なんかないはずなのに。なんでこんな惨めな生活を送りながら、それでも私はバックレをやめられないんだろう。なんで、どうして……。

 

バックレが完全に癖になってしまった私の人生は、もはや崩壊寸前だった。

  

 

10年間、誰にも打ち明けることなくバックレ癖に悩み続け、ある日私は、カウンセリングルームの扉を叩くことにした。限界だった。バックレを克服しないままこの先の人生を生きていくことを想像するだけで、怖くて怖くて仕方がなかった。

 

それからさらに数年経って、現在の私は子育ての傍らで細々とWebライティングの仕事をしながら生計を立て、多分人並みに生きている。収入は多いわけではないけれど、子どもを自宅で見ながらなんとかお金を得られているので、自分としては満足している。要するに、バックレないで与えられた仕事を最後まで完遂できるようになったのだ。
“バックレ癖がなおった”といっていいのかは、正直わからない。逃げ出したくなる瞬間は今でもたくさんあるし、何か環境が変わったらまたバックレてしまうこともあるのかもしれない。けれども、バックレたい気持ちになってしまう原因がわかってきたし、その気持ちをうまく処理して仕事をやり遂げる方法も身についてきた。

10年かけて、やっとわかった。私は非常識で怠惰な人間だからバックレていたのではなく、逃げてしまう原因がちゃんとあったのだ。

 

10年間、数えきれないほどたくさんの人に迷惑をかけて、とてもリアルでは人に話せないような恥ずかしい人生を歩んできた。その過去を覆すことはできないし、迷惑をかけた人たちに向ける顔は一生かけても見つけられない。けれど、だからこそ、私の恥ずかしい人生の一部をシェアすることは、誰かの励みになるかもしれない。
私の人生を困窮まで追い込んだバックレ癖と、逃げずに仕事ができるようになった現在までの経緯を、これからブログで打ち明けていきたいと思う。