バックレがやめられない

バックレがやめられなかった20代の10年間、バックレ癖で人生がとんでもないことになった経歴を綴ります。

2-2.バックレの歴史を振り返る~フリーランス編~

 

 「自分の気持ちに正直に、やりたくないことを無理してやるのではなく、やりたいことを選んでやるようにすれば、バックレる必要はもうなくなるはずだ」

そう考えて、私は再就職をせず、フリーランスのWebライターになる道を選ぶことにした。

 

 

意外にも順調に滑り出したフリーランス生活…?

大した準備期間もなく、突然フリーランスとして独立するのは無謀な道であることに違いなかったが、算段はあった。超ブラックなIT企業でWebサイトの企画や運営に携わっていたため、Webライターとして必要最低限の知識と経験はある程度身に付いていたのだ。それに、単価さえ気にしなければ、Webライターの仕事はネット上に溢れかえっている。頑張って働けば、まぁなんとか食っていけるだろう、と能天気に考えて踏み出した。それに、再就職してもきっとまたすぐに辞めてしまう確信があったため、どうにも就活をする気にはなれなかった。

事実、突拍子もない独立であったにも関わらず、仕事を受注することには成功していた。最初はクラウドソーシングを使って比較的マシな単価の案件を受注し、同時に起業家向けの交流会やセミナーに参加して人脈を作っていった。人に気に入られるのが得意なので、行く先々で成功を収めている起業家の人たちとつながりを作って、仕事の約束を取り付けていった。
私はほっと胸をなでおろしていた。やっぱり、私の勘は当たっていたんだ。自分がやりたいと感じて、自分で選んだ仕事をしていれば、私はもう、逃げる必要なんかないんだ。これでもう大丈夫、やっとまともな社会人として生きていくことができるんだ、と。

 

でも、ダメだった。バックレ癖はなおるどころか、ますます加速していった。せっかく約束を取り付けた仕事の数々をほとんどこなすことなく、怒涛の逃亡劇が幕を開けることとなった。

 

怒涛のバックレ劇

クラウドソーシングを通してセールスコピーのライティングを依頼してもらったときは、私の経歴をかってクラウドソーシングにしては高単価な条件を提示してもらった。チャットやスプレッドシートを使ってやりとりしていた途中で、突然連絡を返さなくなり、そのままバックレた。やりとりに使っていたスプレッドシートに「無責任な人ですね」と、怒りのコメントが付いていたことが思い出深い。

ある交流会で出会ったマーケターの方には、Web広告のライティングを依頼してもらった。2回ほど打ち合わせを行い、いよいよライティングに取り掛かろう、というところで私の糸がぷっつりと切れた。一度も納品することなく、行方をくらませた。ちゃんと納品していれば、継続的に案件をもらえるに違いなかったのに。

あるとき参加したライティングセミナーの講師はとても面倒見のいい方で、スキルを伝授するだけでなく、所属している起業家向けコミュニティを紹介してくれた。幅広い層の人々と人脈を広げることができ、そこから2件ほど案件の受注にまでつながった。しかし、案件に着手する前に全てを投げ出して、逃げてしまった。FacebookもLINEも、コミュニティ関連の人々との接点は全て削除して、もう接触できないようにした。

立ち上げた事業に参加させてもらうことになった起業仲間からは、プロモーションやマーケティング全般を任せてもらうことになっていた。一緒に事業計画を練り、プロモーションの方向性を話し合って、たくさんの熱い議論をかわしたけど、いざローンチの直前になって逃亡した。なんだか嫌になってしまったのだ。

大手出版社の編集者からは、サブカル雑誌でのコラム執筆を任せてもらったことがある。紙媒体での執筆経験は全くなかったが、たまたまネットで見つけた求人に応募した私の原稿を気に入り、採用を決めてくれた。半年ほどはしっかり納品することができていたが、やっぱり突然手が動かなくなって、納期をぶっちぎってバックレた。未経験の人間が紙媒体での原稿を書かせてもらえるなんて、またとないチャンスだったのに……。

まだまだある。クラウドソーシングで得た仕事は他にも5~6本はバックレたし、セミナーや起業家コミュニティで知り合って迷惑をかけた人の人数はもはや数えきれないほどだ。
読んでの通り、大した実績もないくせに外面が良く、人に気に入られることだけは得意なので、余計にたちが悪い。「ポテンシャルをかってもらう」「人柄を気に入ってもらう」といったことに長けているせいで、次から次に仕事を受注してはバックレるサイクルを繰り返すことが“できてしまった”のだ。

 

ショックだった。「やりたいことだけをやっていれば、逃げなくていいはずだ」という考えが、間違いであったことを認めざるを得なかった。
心躍る仕事を選んできたはずだった。自分を評価してくれる人と組み、能力を活かしてより自分を高められる仕事にチャレンジして、ワクワクを感じながら生きていけるはずだったのだ。

それなのに、私のバックレ癖は、なおるどころかますます加速するばかりだった。「やりたいことをやる」というのは、なんの解決にもならなかったのである。

 

どんどん厳しくなる生活

バックレを続けるほど、生活も厳しくなってきた。当たり前のことだが、フリーランスのライターは手を動かさなければ報酬を得られない。休業手当も傷病手当も頼ることができないのがフリーランスという生き方だ。手を付けた仕事を次から次へとバックレている私は、独立以来まともなお金を稼げていなかった。みるみるうちに口座の残高が減っていって、どうしようどうしよう、と気持ちが焦るばかりだった。それなのに、バックレをやめられないのだ。

これでは生きていけないので、ライターとしての活動を続けながら、派遣で事務やコールセンターの仕事に就き、収入を得ようとした。
が、やっぱりどれも続かなかった。「やりたいことをやる」を信条としてフリーランスを志した私が、派遣の仕事を頑張れるわけがなかった。嫌気がさしたり自分が情けなくなったりして、早いものだと3日でバックレた。
お金が無くなるにつれて、即金で給料をもらえる仕事へとシフトしていった。警備や本の出荷工場、軽作業など日当がもらえるアルバイトを転々とした。どれも1ヶ月持たなかったので、その場しのぎのお金しか得られなかった。バイト帰りにスーパーに寄り、値引きシールの貼られたお弁当を毎日食べて節約をはかった。

そのうちとうとう貯金が底をついて、クレジットカードの支払いができなくなった。学生時代に作ったカードを1枚つぶして、信用情報に傷をつけることになってしまった。
いよいよ後がなくなった私が手を出したのは、男性を相手にする仕事だった。

 

とうとう男性を相手にする仕事に……

最初に選んだのは、チャットレディの仕事だった。チャットレディはパソコンでビデオ通話をつなぎ会話を楽しむものなので、直接体に触れられることがない。慣れれば自宅でもできるということもあり、比較的敷居が低いかと考えた。


数多くの求人情報の中でも「体を見せなくても、話をするだけでもOK」という触れ込みの求人を見つけ、とりあえずそこに応募した。実際に面接に行ってみると「稼ぎたいならまぁ、とりあえずできるとこまでやってみてよ」と言われて、大した説明もなく部屋に押し込まれて、面接初日だというのに突然チャットデビューする運びとなった。
「できるとこまで」と言われていたが、相手の男性は脱ぐのが当たり前と言う雰囲気で会話を進めてきた。押し流されて、あれよあれよという間におっぱいを見せる羽目になっていた。何やってるんだろう私は……。心底自分が情けなくなったけれど、2、3時間で1万円以上の稼ぎを得ることができた。

お金に釣られてそのまま2ヶ月ほど続けていたが、知らないおじさんの言うとおりにおっぱいを見せている自分に急激に嫌気がさして、やっぱりある日突然辞めた。勤め先から特に連絡がくるようなこともなく、気楽にバックレられるのはありがたかった。

次に選んだのは、メンズエステ店で働く、いわゆるメンエス嬢だった。
メンズエステはあくまでも“マッサージ”をする店なので、建前としてはエロいことをする必要がない。しかし、指名を得てよりたくさんのお金を稼ぎたいなら“ギリギリのサービス”でお客を喜ばせる必要はある。
私はこの辺の線引きがうまくできず、客からキスされたり、胸を揉まれたり、嫌な思いをしこたまする羽目になった。パンツの中に手を入れられたこともある。そういう客をうまく制することができず、いいようにされてしまうと、家に帰ってから死にたくなった。

優等生として育って、進学高校を出て、国立大学に入って、優しい家族とたくさんの友達に囲まれて育った自分が、なんでおっさんにおっぱいを揉まれて死にたくなってるんだろう、と思った。フリーランスのライターを目指していたはずが、いったい私は、なんでこんなことになっているんだろうか。
それでもメンズエステの仕事は割がよく、週3で1日4~5時間も働けば生活費は工面することができた。4ヶ月ほど働いたが、やっぱり途中で嫌気がさして、無断欠勤の末にバックレた。

 

バックれても、お茶会には行く

どんなに生活が荒んでも、旧来のコミュニティとは変わらない付き合いを続ける、という行動パターンも以前と全く変わっていなかった。
無断欠勤して取引先や勤め先からの連絡を一切無視し、居留守を使って、逃げた後は全ての関係者と縁を切る。うつ病のようにも見えるが決してそうではなく、ご飯も睡眠もいつも通りにとれるし、遊びにも行く。大学生の頃から変わらない、バックレ発動時の行動パターンだった。
毎日値切り弁当を食べて、極力部屋にこもってお金を使わないようにするほど生活が苦しいくせに、月に1、2回は友達とランチに行ったりお茶に行ったりするところも、変わっていなかった。残高はいつでも底を尽きるギリギリの運用だったが、お金がないそぶりを友達に見せることがどうしてもできなかったからだ。

家族に相談することもできなかった。というか、家族にこそ、こんな悲惨な生活をしていることなんて絶対に知られてはならなかった。大学を中退したとき、すでに1回とんでもない心配をかけて情けない姿を見せている。ちゃんと仕事をして頑張っていると思われなければいけなかった。メンズエステで働いているなんて、そんなとんでもない生活をしていることを言えるわけがない。
とにかく私は、対外的に「いつも明るく元気で、目標に向かって頑張っている自分」を崩すことが、どうしてもできなかったのだ。

 

もう、一人ではどうすることもできない

自分の行動が常軌を逸していて明らかにおかしいことは、もう充分わかっていた。わかっていたけど、目を背けるようにしていた。
次は大丈夫、今度こそちゃんとやろう。やれる能力は自分にはあるんだから、逃げさえしなければできるはずなんだから。
バックレと正面から向き合わないまま次々に新しいことに手を出したせいで、呆れるほど同じことを繰り返してしまった。自分の異常さから目をそらし、騙し騙し人生を送っていたために、お金は無くなって、男性向けマッサージの仕事までするようになってしまった。
会社を辞めて独立し、バックレを繰り返してマッサージの仕事をするようになるまで、たった2年間の話である。

気が付けば30歳を目前に控えていた。
会社員としての経験は4年にも満たず、ライターとしての実績も皆無に等しい。社会人としての土台が全くでき上がっていない30歳なんて、一体この先どうやって生きていくつもりなんだろう。こんなずさんな人生を、私はいつまで続けるつもりなんだろう。こんなにも追い込まれているのに、この後に及んでどうして私はちゃんと仕事ができないんだろう。

どんなに自分を鼓舞しようとしても、気持ちが焦れば焦るほど、余計にバックレを繰り返してしまう。この先の自分の人生が、未来が怖くてたまらなかった。

 

そして、この頃にはもう理解していた。
この問題は、もはや私一人では解決しようがないのだということを。
これ以上一人でなんとかしようとしても、同じことを繰り返すだけなんだと。

 

「専門家に相談しよう」
1Rの狭い部屋で一人、ひっそりとそう決意した。